2004年6月6日 初物づくし
我が美原タイガースは2002年5月に結成した。

これまで幾度かの試合を重ね少なからず草野球チームとして活動してきた。

まだ活動3年目を迎える美原タイガースに取って経験したことがない事柄は多くある。

2004年5月、我が美原タイガースにとっての
初めてという体験が3個あった。


まず1つ目は、何といっても「
ユニフォーム完成」だ。今まで各自好きなアンダーシャツを着たり、

練習着もバラバラだった。試合で味方のランナーか相手の野手なのか判別付かないこともあった。

初めてユニフォームに袖を通した時はある種の感動を覚えた。

まだまだ草野球チームとしては未熟だが、ユニフォームがあれば気持ちも引き締まる。

チームとしての一体感もでる。活動の幅も広がってくる。

みんなで揃えてよかったと思った瞬間だ。


続いて2つ目は、「
公式審判のジャッジでの試合

草野球チームというのは試合時の審判に攻撃側のチームが審判をすることが多い。

実際我が美原タイガースもそうしてきた。自然と攻撃の味方チームに少し甘い判定になってしまう。

今回審判を引き受けてくれたのが、「草野球の窓」の「くまの穴」の久間様。

審判という職業に惚れ込んだ熱き男だ。(詳細はこちら「草野球の窓」くまの穴)

曖昧なジャッジは全くなく、まさに公平。一塁の判定も審判自らピッチャーマウンドの方に走っていき

見やすい角度での判定。

※ファールゾーンは1塁ベースのベースカバーの邪魔になるのでしていなかったです。

試合前と試合後の整列、挨拶と見事に仕切ってくれました。「是非記念撮影をさせて下さい」と

久万様にお願いしましたが、「
審判は石ころやから、写真には写りません」と

あくまで審判道に邁進していました。


最後は何といっても
チーム初本塁打

5月30日に行われた「狭山ナイツ」第2試合。ランナー3塁。バッターは坂口さん。

相手投手の投げた球を渾身のフルスイング!!打球はセンターの後方をはるかに飛んでいく。

俊足の坂口さんはグングン加速しながらダイヤモンドを駆け抜ける。

中継を経てボールは内野へと返ってきたが、坂口さんのスライディングが早く、間一髪セーフだった。

チーム初本塁打は俊足坂口さんだった。

このコラムに書いてある内容は他のチーム様から見れば、「何を今更・・・」「本塁打くらい何本も打ってるわ」

と思われるかもしれないが、今まで試合すらろくに出来ずにいたチームにとっては忘れられない思い出だ。

ういった小さな思い出を大切にしていきたいと思う。そういうチームであり続けたいと願う


2004年5月16日 秘密特訓
我が美原タイガースは基本的に毎週土曜日に練習をしている。

日曜日に球場が取れたら練習試合をすることが多い。

したがって、時には土曜日・日曜日の両日共に野球漬けになることもある。

活動としては比較的多いほうだと思う。

それでも試合前には自発的にバッティングセンターに行く時がある。

速い球に目を慣らし確実にミートして、本番に臨むためだ。



翌日に試合を控えていたある日、メンバーでバッティングセンターに行った。

堺市の某所にあるこのバッティングセンターはゲームセンター、ビリヤード場、パターゴルフ、

ピッチングマシン、ストラックアウトや守備練習場なども併設している比較的大きな施設だ。

バッティングセンターは10打席以上あり、
格安料金と豊富な球速を選べるのが売りだ。

各自自分にあった球速の打席で打っていた。

何度かやっているうちに自分のポイントを掴めて来た。



次はどの打席に入ろうかな?と歩いていると「
ミラクルボール」と表に書いてあった。

90キロのカーブと110キロのストレートを投げるらしい。

試合前に相手投手がカーブを投げてくるかもしれないので、意気込んで打席に入った。

球種はもちろん「ミラクルボール(カーブとストレートのランダム)」。

「ボール投げます」の合図と共に始まった
素振りの練習

カーブとストレートを投げられバッティングセンターの1打席分ボールが当たらずひたすら素振り。



素振りの練習を終え、打席を出るとメンバーが一箇所に集まっていた。

見てみると木製バットできれいに打球を返している。時にはホームランせいの当りもある。

球速は?・・・と見てみると「
プロ級150キロ」。

150キロの球をあんなに軽く返せるなんて・・・

メンバーの一人が「やってみよう!!」と言い出した。

「投球中に交代で打席に入り(
投球中の打者の交代は危険ですのでお止め下さい)、

実際に150キロの球を打とう」と言うのだ。

勇気を振り絞って
未知の領域へと踏み出していった


「ボール投げます」の合図と共に投げ出されたボールはいつの間にか後ろのネットに当たっていた。

これが150キロ、
プロの世界かと実感。もしデットボールをくらったら、

間違いなく骨折するなと言う恐怖感と共にバットを振っていた。

自分の持分である7球がやたらと多く感じた。

中にはバットに当てる事ができたメンバーもいたが、ヒットというところまでには至らなかった。


バッティングセンターでいい汗をかいて意気揚々と

帰った
翌日の試合は激しい筋肉痛で体が動かなかった


2004年4月22日 続・全国デビュー
以前美原タイガースの掲示板に「ペン企画」という番組企画会社の武田様という方が投稿していただき、

それをもとに「気まぐれコラム」で美原タイガースの野球狂を取り上げた文章を書いた。(詳細はこちら

番組企画会社の方の投稿から約2ヶ月後。


我々もそんな投稿があったことすら忘れてしまっていたある日。1通のメールが届いた

差出人は「ペン企画」の武田様
。このサイトの「気まぐれコラム」読み、

是非メンバーを紹介してほしいとの熱い内容だった。

番組概要も添付されており、熱意が伝わった。

コメンテーターは星野仙一元監督と広沢克己元選手だった。

大まかなメール内容を抜粋すると


(省略)

さて、今回なぜ、美原タイガース様にメールを差し上げたかと言いますと・・・。

ホームページ上の「気まぐれコラム」を拝見しまして、エースの花登 様のプロフィールに

大変興味を惹かれたためです。「浴槽の中で変化球の握りと手首の強化の練習」

「1日300球以上の投球にも耐える鉄腕の持ち主」 なんてすごく興味を惹かれます。

そこで、もし不都合でなければ、エースの花登 様をご紹介して頂けないでしょうか

どうかお願い致します。

(省略)


何と今回は美原タイガースのエース花登をご指名での番組出演の依頼だった。


メール内容から武田様の誠意が伝わったので、早速花登氏に武田様のメールを転送し返事を待った。

翌日メールボックスにはエース花登からの返事があった。


「私はまだまだそんな場にでるほどの勇気も実力もありません。

またの機会にさせていただきます」とのことだった。

すかさず私は「花登さん、『またの機会』ってないですよ!!」と突っ込んだが、エースは無頓着。

本人の意思を尊重し、「ペン企画」武田様に丁重にお断りの返事を送った。


追記として、その後のエース花登はメンバーから

「せっかくテレビ出演の依頼があったのにもったいない」と言われながら、苦笑いをしていた。

一時期図書館に通ってスコアブックのつけ方を勉強していたが、マスターしたらしい。

試合の時も率先して正確なスコアブックを付けていただいている。

最近は新しい変化球を習得するために「新たな握り」の猛特訓中だ!!

身体は40歳を超えても野球好きは変わらない。


野球少年の様にひたむきに努力を続け、
進化し続けるエース花登に乾杯!!



2004年3月24日 3年目の正直
美原タイガースが結成したのが2002年5月。前にも書いたがほんのお遊びだった。

2002年は5試合で2勝3敗。2003年は8試合4勝4敗。

2004年は3ヶ月で9試合5勝4敗と過去の年間試合数を早くも上回っている。


特に2004年の3月はほぼ毎週土、日と練習試合ができた。

これには何といっても昨年12月から新メンバーとして加入してくれた樽井さん、渡辺さん、伊川さん。

今年2月から加入してくれた池上さんを含め
新メンバー4名が入ってくれたおかげだ

今まで試合をしたくても悶々とメンバーが足らずに目標無く練習に明け暮れていた。

時には2人で練習することも多々あった・・・

チームにとって新メンバー4名の加入は野球チームとしてコンスタントに9人揃う。


ある日練習後の話し合いでメンバーから「
美原タイガースのユニフォーム作ろう!」という声が上がった。

過去何度かユニフォーム作成の話が出たこともあったが結局作らなかった。

その理由は「
助っ人ではなく、チームの一員として活動してもらえるメンバー全員でユニフォームを作りたい」と思っていた。

発足当初は遊びのチームだった。試合で
美原タイガースのメンバーより助っ人の方が多い時すらあった。

そんなチームがユニフォームを作れるようになるとは夢にも思っていなかった。


ユニフォームを作成するために何度もスポーツショップに足を運んだ。

メーカーからカタログを取り寄せみんなでデザインを考えた。

タイガースならタテジマだろう。ズボンが白色無地にしようと言っていたのでこれは断念。

上がタテジマで下が白無地はあまりに格好悪い。上着と帽子をデザインすることになった。

できるだけ他のチームにはないものを。「Tigers」のロゴは入れたい。できれば安く。

そして決定したデザインはこちら


デザインが決まったら背番号だ!!各自好きな番号を言っていった。

監督は「77」、私は「05」と言ったがあっさり却下された。

草野球チームとして幾つか背番号に決まり事があるらしい。

監督は「30」、「0〜」はダメとかね。知らなかった・・・


メンバーにサイズ、背番号の最終確認をしスポーツ店にて発注した。完成が待ち遠しい毎日だ。

ユニフォームができたらチームとして今以上の活動ができると思う。

ユニフォームが完成した暁にはみんなで集合写真を撮りましょう!!


2004年2月24日 遊びから「軟式野球」へ
我が美原タイガースはユニフォームはまだ揃っていないが、野球道具は一通り揃っている(つもりでいる)。

発足当初のメンバーの野球道具といえば、それはそれはお粗末なものだった。

服装はジャージにTシャツ、運動靴という、近所の公園でキャッチボールをする程度の姿だった。

練習に使うベース類もゴミ箱を漁って、目印程度になる物を置いていた程度だった。

グラウンドの確保方法も知らず、近所の児童公園で練習することも多々あった。

道路にボールが飛び出たり、公園内の人にボールが当たったこともあった。

メンバーに学生時代の部活動での野球経験者がおらず、まさに「お遊び」だった。

お遊びの『美原タイガース』を軟式野球チームへと意識付けしてしていただけたチームがあった。


美原タイガースが初試合に向け、ある球場で練習をしていた時に野球のユニフォームを着た集団が現れた。

ユニフォームというのは独特の威圧感がある。野球経験の無いメンバーにとっては憧れにも映る。

グラウンドを予約していなかったという事もあり、早々に引き上げる準備をしていた。

ユニフォームを着た中の1人が私達の方へ近寄ってきた。「勝手にグラウンド使ってるから怒られる」と、

内心びびっていた。しかし、私たちの元へと来た人が予想外の事をいってくれた。

「○月○日練習試合しませんか?その日はこの球場を4時間予約しているから、存分にできると思います。」

もちろんこちらは「お願いします」とお互いの連絡先を教えあった。相手のチーム名は
「TSP」と名乗ってくれた。

メンバーは屈辱の初試合を経験し、次の「TSP」戦に向け練習していた。

「TSP」戦のメンバー集めが大変だった。初試合に参加してくれた人の中には野球を好きでない人もいたし、

家庭が疎かになるという人もいた。参加できるメンバーの友人、知人に連絡を取り何とかメンバーを揃えた。

混成ではあるが、メンバー9人が集まった。いざ「TSP」戦へ。



前日の雨で試合当日はグラウンドは水溜りだらけ。それでもお構いなしに私たちは1時間半前に集合し、

いつも通りの練習をしていた。試合前に疲れてベンチで休憩していると、「TSP」が現れた。

相手はばっちり全員同じユニフォームを揃え、右袖には「大阪」の文字まで・・・「TSP」って大阪代表!?

かたや
美原タイガースは全員ばらばらのジャージにTシャツ、運動靴。

代表者と話をし、まずはグラウンド整備をしようとなった。

相手はスコップや、バケツを用意しており、テキパキとメンバーがグラウンド整備をしていく。

「私たちもグラウンド整備しなくては!」とゴミ箱を漁り、捨てていたペットボトルで水溜りの水を汲み取っていた。

水溜りで水汲みをしている間に「TSP」の方々とお話させていただく事ができた。

60歳の現役選手を最年長に、少年野球のコーチをしてる方など同一業界の方々でのチームということだった。

昔は連盟などにも加盟して試合をしていたと語っていた。

15分程泥まみれになってなんとかグラウンド整地を終えると、「TSP」は試合場作りと練習組に分かれた。

練習風景をただただ関心して眺めていた。メンバーが同一方向に並んでのキャッチボールから始まり、

トスバッティング、内外野をおいてのミートバッティング。端っこではバッテリーで投球練習している。

完全に呑まれてしまった。

試合場作りの方もテキパキと100mメジャーを使って塁間の測定から始まり、自前のライン引き、

自前のベースを取り出しあっという間に野球のグラウンドができてしまった。

全ての準備を終え、メンバーが整列し試合前の挨拶の時に「試合球をお願いします」と言われ、「何??」

今でこそ当たり前だが、
試合球の用意すら知らずに試合をしようとしていた。

「今度からお願いしますね」とお許しいただいた。

試合が始まってもファールボールの処理や、ランナーコーチ、試合球の手入れなど

試合への気配りが行き届いていた。


試合が始まっても予想通りの展開だった。初めて見る変化球にバッターボックスから逃げてしまい、

三振の山。
エースが降板まで「完全試合」だった。

結果は美原2-12TSPと大敗したが、それ以上に軟式野球チームとして学ぶ事が多かった。

「2週間後にまた試合をしましょう」を監督から仰ってくれた。

TSPとの再戦に向け、
メンバーで話し合い自発的に少しずつ道具を揃えていった。

「まずは足元から」ということでスパイクを買った。ピッチャーでもないのに全員ピー皮(つま先の磨り減りを抑え

るカバー)を装着。悪戦苦闘の末、グラウンド整地用のトンボを2本作成した。

ホームベースは購入し、その他はダンボールを規格のサイズにして布テープで巻いて代用した。

メジャーも購入し、ダイヤモンドの塁間を初めて測った。

負ける事が分かりきっているのに「TSP」との再戦が楽しみだった。

しかし、この再戦は「TSP」のメンバー不足のため実現できなかった。

いつか「TSP」の様なチームになりたいなとメンバーと話していた。

昨年2003年に「TSP」の代表者に再び連絡を取ってみた。「TSP」との試合から毎週練習を重ね、

今までの「遊び」から「軟式野球チーム」へと変化してきた。自分たちの成長を確かめる為に再戦を願いでた。

返答は
チームは解散しました。メンバーが集まらないことが多く仕方ありません・・・」

「そうですか・・・残念です。分かりました」

あれほどの道具類を揃え、きっちりとした役割分担ができるようになるまでには、

相当の年月がかかっただろうと容易に想像がつく。


美原タイガースは結成3年目を迎える若輩チームだ。これからも練習や試合を重ねメンバーとの絆を深めて、

いい「軟式野球チーム」になりたい。何度かメンバーが集まらず解散の危機があったが何とか乗り越えてきた。

これからもメンバーと話し合い野球を続けていけるようにがんばろう
!!


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